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今日のグローバルになった広い文化の世界には、キリスト教の影響があります。音楽会で演奏されるミサ曲やオラトリオなどクラシック音楽も美術館に展示される西洋の絵画も、聖書の物語を抜きにしては理解できません。それだけでなく、今の不透明な時代には、真のよりどころが必要ではないでしょうか。

私たちはイエス・キリストを心のよりどころとして豊かな人生を歩むことができます。文化的な関心をもっている方、また現代の心のよりどころを求めている方、教会の礼拝に来て見ませんか。どなたでも歓迎いたします。
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5月23日 説教要約 「あなた方をみなしごにはしておかない」 秋葉恭子牧師

2010/05/26 14:03

ヨハネによる福音書14章15節〜30節

 ペンテコステ「聖霊降臨」、おめでとうございます。ヨハネ福音書に記されている、父なる神から私たちに与えられるこの上ない恵み…聖霊について考えたい。主イエスは十字架にかかる前、地上に残される弟子たちが主を失って困惑しないように、聖霊(別の弁護者)の恵みについて説教を残された。

 「あなた方をみなしごにはしておかない。あなた方のところに帰ってくる」というメッセージが残されたからこそ、2000年後の今も私たちは使徒信条で主は三位一体:父と子と聖霊であることを告白することができる。信仰と聖霊は深く結びついている。葉がゆれたのを見て、風が吹いたことを知るのと同じく、信仰者は聖霊を目で確認するのではなく、その動きや働きによって知ることができる。信仰を求めて祈ると、神様のご支配を感じ、聖霊の働きを感じる。聖霊が働かれるとき、私たちは、自分は決して一人ではないこと、共にいてくださるキリストを知り、新しい命に生きることが許される。

 十字架につけられ、死にて葬られ、天に昇り、神の右に座したもうキリストは、誤解を恐れず大胆に言うならば、聖霊という別の形で地上に戻ってこられて、弟子たちやその後2000年以上続く信仰者たちと共に、そしてこれからも信仰者たちと共に永遠にいてくださるのである。信仰のない世では、聖霊を感じることはできない。そしてキリストの最初の弟子たちに聖霊が注がれてから、同じく聖霊を注がれたものたちが増していき、信じ合い、助け合う仲間が集う共同体ができていった。つまり、最初の聖霊の降臨は、すなわちペンテコステの出来事は、教会の誕生を意味している。「我は聖霊を信ず、聖なる合同の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白しているとおり、永遠の命に通じる確かな道を、教会を形作るものの手足として歩み続けていきたい。
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5月16日 特別礼拝『その名はイエス・キリスト』 経堂緑岡教会 松本敏之牧師

2010/05/24 21:29

   イザヤ書58章6〜11節・マタイによる福音書25章31〜46節
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25章40節)

 ブラジルで、この聖書箇所から生まれた「その名はイエス・キリスト」という讃美歌に出会いました。たとえば、1番は「その名はイエス・キリスト、飢えに苦しみ、飢えのために叫んでいる」・「その名はイエス・キリスト、家もなく、歩道の脇で眠っている」という歌詞となっています。

 釜が崎で働く本田哲郎神父は、聖書のこの個所は人が人として生きていくために必要な5つの基本的事柄である「食」「住」「衣」「健康」「自由」が脅かされるようなところに主イエスがおられることだと言っています。主イエスの受難物語に先立つ聖書のこの個所は主イエスの教えの総括とも言えましょう。5章から7章までの山上の説教の最後の、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」と今日の個所とは響き合うものがあると思います。主イエスが再び来られて裁きを始められるとき、裁きの基準は何かが示されています。

 この聖書の個所が示すのは、まず第1に主イエスは世界のすべての人のために命を捨てられ、そしてすべての人のことを心配し、心に留められているということです。そして、第2に主イエスは貧しく、苦しみの中にある人々と一体となっておられるということです。人間の苦しみ、悲惨は、まさしく主イエスご自身のお姿にほかなりません。私たちが主イエスと出会うのはまさにそうした人々を通してであると言えるでしょう。私のブラジルでの7年間の経験でも、貧困にあえぐ人々の中に何かキリストの気配のようなものを感じました。さらに、善きサマリア人の物語と重ね合わせることができます。主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と追いはぎに襲われた人の隣人となるよう促されます。

 私たちは一人の力ではどうしようもないほど厳しい社会の現実に日々当面しています。しかし、信仰の力は、すぐ始められる身近な小さなことから信仰の仲間の共同作業を始めさせ社会変革へまで向かうダイナミックな可能性を持っています。私たちは、主イエスがすでに用意されている御国に向けて、何が主に喜ばれることであるかを正しく知り、「よし、私もそのように生きよう」と促される者となりたいと思います。
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富士見丘教会のホームページアドレス変更について

2010/05/15 13:03
富士見丘教会ホームページの移転が完了しました。

以下のとおりにアドレスが変更されます。ブックマークの変更等、宜しくお願い致します。

(旧) http://www7b.biglobe.ne.jp/~chfujimi/
 ↓
(新) http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujimigaokachurch/index.htm


富士見丘教会 ウェブ管理担当より
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現在、富士見丘教会ホームページの移転作業をしています。

2010/05/15 10:05
(!)

富士見丘教会ホームページの移転作業のため、現在
教会ホームページが閲覧できない状態となっております。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~chfujimi/(閲覧できません)

本日の14時頃には移転作業が完了します。
新しいホームページアドレスは当ブログで告知致します。
ホームページご利用の皆様にはご迷惑をおかけしますが、
ご理解とご協力をお願い申し上げます。

富士見丘教会 ウェブ管理担当者より
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5月9日説教要約 『安息日のいやし』 秋葉恭子牧師

2010/05/15 08:03
申命記 5章12〜15節
ルカによる福音書 13章10〜17節

18年間も病に悩まされている婦人をサタンの束縛から解き放ってあげる、それが安息日の会堂のもっているはずの本来の働きではないだろうか。主イエスは問いかけられた。しかし主イエスのこの行いを素直に喜べなかった人もいる。会堂を管理し、礼拝を司る権威をもっていた会堂長である。主イエスは、会堂長や背後にいる長老たちに向かって、偽善者たちよと、神様から託されている権威を自らのために用いている者を非難した。
安息日は、サタンの束縛から解き放たれ、人間と神様との関係が本来あるべき姿に戻される日であり、神様を賛美することにより、真の安息、霊の安息の中を生きる日である。これは現代の教会でも同様であり、主日の礼拝での主のみことばにより、この世の思い煩いから解放され、私達の霊は神様の平安により癒される。
また安息日は、神様を賛美し、感謝する日であり、自らの内に湧きあがってくる様々な肉の思いや怒りを鎮めて、神様の前にあるべき姿を思い起こしつつ自らの姿を悔い改める日でもある。神様に向かって賛美と感謝をささげ、自らに向かっては悔い改めをなす、その営みのただ中において、真の安息を与えられる。それこそが主の日の礼拝である。
「病気は治った。」主イエスがこう告げられるのを、大いなる感謝と賛美の声で迎えるために、私達は礼拝に集う。私達の霊は主の日が来る度に癒し続けられ、私達の曲がった霊はまっすぐに神へ向かう霊へと導かれている。約束の地、神の国へと向かう確かな歩みである。
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2010年5月2日 全体礼拝 『あなたはどこにいるのか』 秋葉恭子牧師

2010/05/08 07:33
  創世記3章1節〜10節 創世記2章では、神は土の塵から人を造られ、豊かな実りをもって養われたと記されている。それにもかかわらず、3章に入ると、人が神に背く罪について記される。「どの木からも食べてはいけないと、神は言われたか」と、蛇は問いかける。園の中央に生えている木を除いてはと答えつつ、女の答えには、「触れてもいけない」という言葉が付け加えられた。そこで、蛇は、神からの束縛から逃れることこそ自由だとそそのかす。園には多くの木があり大きな恵みが与えられていた。しかし、その大きな恵みの中の小さな戒めが女の中で大きくなり、神からの束縛と感じられ、神への背きへと向かった。そそのかした蛇に、無理やり罪を犯させる力はない。人の背きは人の意志によって行なわれるのである。
神の戒めに背き、禁じられた木の実を食べたことは、神のもとで生きることをやめ、自分が主人となろうとする罪の本質を表わす。さらに、アダムと女は、神の顔を避け、身を隠した。神に造られた本来の人には隠すものがなく、曇りのない交わりの中にある。しかし、罪によって、神との交わりに亀裂が生るじ、破れが生じたとき、神の顔を避け、身を隠すことになるのである。
その亀裂にもかかわらず、8節では、驚くことに木の間に隠れているアダムを、神は呼ばれたとある。全てを知っておられる神は、アダムが自ら神の前に姿を現すことを求めておられる。神は『あなたはどこにいるのか』と問いかけ、私との交わりの中にこそある真の自由、平安の中に戻りなさいと言われる。『あなたはどこにいるのか』、この神の言葉こそ神の御心を表すものであり、聖書全巻において響いている。旧約聖書には、ご自身と人との交わりを回復させようとされる神のみ業の歴史が記されている。
 そして、ついに主イエス・キリストの誕生をもって、『あなたはどこにいるのか』、この神の言葉がわたしたちに具体的な形で示された。罪人を捜し求める神の言葉は地上に鳴り響いている。キリストの十字架によって罪を赦されていることを信じ、キリストの支配の中に新しく生きる者とされたとき、神に語りかけ、み前に立つことができる者へと回復されるのである。
さらに、神は、先に神のみ前に立つ者とされた私たちを用いて、神の言葉そのものである主イエス・キリストによる福音を、一人でも多くの人々に届けようとされている。罪の支配から主イエス・キリストの支配へ移された私たちは、聖餐の恵みに与りながら、神が共におられる歩みを続けよう。
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4月18日説教要約 『悔い改めなければ』 秋葉恭子牧師

2010/04/27 23:44
イザヤ書 5章1〜7節
ルカによる福音書 13章1〜9節

ルカによる福音書に記されているぶどう畑の譬え話には、イザヤ書の同様の譬えに園丁が加わっている。この園丁は、どのような役割が与えられているのであろうか?
イザヤ書にあるように、神の裁きは誰もが予想しない思いがけない時に突然やってくる。神の怒りは差し迫ったものであり、ぶどう園の主である神は、既に根元に置いてある斧で、実を結ばないいちじくの木を切り倒すように、園丁である主イエスに命じることができるのである。神のみ前にあって自分の罪を悔い改めない者は、思いがけない予想外の時に、その結末を迎える当事者となってしまうのである。
しかし主イエスは、来年は実を結ぶかもしれない(悔い改めるかもしれない)と、天にあって働いていてくださる。私達が生きている時代、主イエスのとりなしは続いている。今日、この主日の礼拝が守られており、神の裁きの日にはなっていない。主なる神の忍耐、主イエスのお働きによって、私達はなおこの地上を生きる存在とさせていただいている。
イエス様の御言葉という霊の養分をいただいている私達は、即、滅びにつながる道を、今歩んでいるのではない。神の裁きの日に備えて、主イエスが与えてくださる御言葉という養分を根っこから吸収し、大きな葉に命の光を受けて、神に喜ばれる実をつける。私達は悔い改めに相応しい実を結ぶ存在であり続けるよう、神の霊によって、守られ、育てられ、養われ続けている。
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